何にも見なかったフリをしよう。
そしたら、壊れるものなど何も無い。
何も見なかったフリ。
何も見なかったフリ。
何も見なかった、フリ。
:::ハッピーバースディ:::
あたしの街が一望できる、この屋上。
お昼になると、友達がいないわけではないのだが、たった一人でここで購買のパンをかじるのが好きだったりする。
青の制服のスカートが、風に融けて揺れる、揺れる。
その風が少しばかり強くなってきた頃、あたしの背後からあたしを呼ぶ声がした。
「みーこ! あんた何やってんのよ、授業始まるよ?」
声の方に首だけ向けた。背の高い少女が太陽の光を遮って立っている。
丁度逆光で、顔は見えない。しかし、風になびく長い黒髪が、キラキラ輝いている。
「さっちゃん……?」
一口もかじられていない焼きそばパンをくわえたまま、声と長い髪から推測される少女の名を―――親友の名を、呼んでみた。
顔を遮るように流れた髪を片手でさっとかき上げ、さっちゃんは、やっぱりここにいた、と呟く。
「あんた相変わらず行動がトロいわよね。ていうか、何も聞こえない訳?」
一歩二歩前に進んだ少女の姿が、太陽を隠す。今度は完璧に捕らえた。
大島沙希。さっちゃんだ。
あたしは口から真新しい焼きそばパンを離し、返事をした。
さっちゃんの言葉の意味が、よくわからない。
反論する。
「聞こえるよぅ! だからあたし振り向いたんじゃ……あ」
そこでようやく気が付いた。
あたしたちが話している会話のバックグラウンドミュージックは、授業開始5分前の予鈴だった。
「ちゃいむ……」
既に振り返って校内へ繋がる階段へと歩き出しているさっちゃんは、きょとんとしたあたしを見て呆れたように言い放つ。
「チャイムは分かったから、早く教室行かないと! 次の授業、のっぺらセンセイの数学だよっ!」
さっちゃんはそう言って座っているあたしを置いて、自分だけ教室目掛けて走り出した。
「さっちゃんひどーい! あたし黒田先生好きだよー? 数学教師なのに白衣着てるとことか! ……あ」
あたしは一通り反論して、潰れた焼きそばパンを一口だけ齧った後、ナイロン袋に戻して、鞄に入れた。
余計なことを言ってしまったな、と、後悔するのはその後のことだった。
*****
今日はあたし・桜木みいこの誕生日。
だから、自分へのバースディプレゼントとして、お昼に購買で焼きそばパンを買う予定だった。
しかし、朝の先行予約を忘れた為、4限目が終わった後に猛ダッシュで購買の焼きそばパン争奪戦争に加わることになってしまった。
ここで、あたしは自分の新しい才能を開花させたのだ。
並み居る上級生の足を踏み、手を伸ばし20人はいるであろう人混みを掻き分け、最後に残った焼きそばパンを、この手にがっしりと!
掴んだつもりが、クリームパンで。
掴んで、潰して、クリームをたっぷり搾り出してしまったのである。
それで、不良品回収とばかりに、あたしが買い取らされた。
その時ドサクサに紛れて、最後の焼きそばパンも購入したのだ。
しかし、購買を離れる時、嬉しくてガッツポーズをしたら、焼きそばパンも握り潰してしまった。
どこまでドジなんですか、あたし。
まぁ、そんなこんなで、お昼休みの大半の時間を、購買でのバトルと、クリームパンならぬ、『クリームとパン』を食べることに取られてしまい、メインディッシュの焼きそばパン様は、パン部分しか食べられなかった。
ここまでいいことがまったくない。
けれども。
曇りガラスのようなこの心を晴らすのは、あたししかいない。
動いてやろうと思った。
*****
「すなわち、サインシータが……」
5限目の数学の授業は、ある意味苦行である。
眠気と戦うことに気を取られて、授業なんてまったく意味がないのだ。
だけど、センセイでそんなのも結構変わるもんだ。
黒田 陽平先生。
パッと見、25歳前後。
決して、カッコイイとは言えない顔立ち。
のぺーっとしているので、みんなからはのっぺら先生と呼ばれている。
このなんとも言えない雰囲気が好きなのである。
恋愛対象として見てしまうようになったのは、本当につい最近からのことだった。
あたしは頬杖をつきながら、ぼんやりと先生を見ていた。
黒板なんか、目もくれなかった。
少し、青色が入った白衣が、開けられた窓から流れる風によって、揺らされる。
その白衣のポケットには、メモ帳と思しきモノと、4色ボールペン、0.3ミリの黒ボールペン、
握りやすくて有名な、Dr.ナントカっていうシャープペン。
たくさん入ってる。
「桜木ー」
好き、とはいうけど、付き合いたいっていうのとはちょっと違った。
恋愛感情なんだけど、このまま見ていたい感じ。
「桜木?」
こんな感情って、終わりがないのかな。
例えば相手が結婚してても、全然嫉妬すら浮かばない感情。
「みーこ目ぇ覚ませー!」
そんなさっちゃんの声で我に還った。
離れた席のさっちゃんを見ると、黒板を指差している。
その指に導かれて黒板を見ると、先生と目が合った。
決して、自意識過剰な訳じゃなくて。
ライヴ行って、ヴォーカルと目が合ったわーとかいうあやふやなもんでもなくて。
確証は、あたしの名前を呼んでたから。
「桜木、大丈夫か? なんかトリップしていたみたいだが……」
先生がそう言うと、クラス中が、どっと笑った。
「え? あ、はい、大丈夫ですっ……」
センセイとの会話。緊張のあまり、最初の『え?』が裏返ってしまった。
また、クスクスと笑いが起きる。
「じゃあ、ここの問題を解いてみろ。」
先生は、三角形の書いてある黒板を弱く叩いた。
問題が書いてある。
『図の旗の真西の地点A,真南の地点Bから旗を見上げたとき、A,B地点からの仰角はそれぞれ、30°、45°であった。
A,B間の距離が6mであるとき、旗の高さを求めよ。』
まず、この問題の前に他の問題がひとつ。
日本語が解読できない。
真西。左のことだろうな。真南。南って、下? 仰角って、なんて読むんだろう。
ていうかそんなんで高さが求められるのか。
へぇ、すごい世の中だ。と感心すらしてしまった。
……感心はすれど、問題の意味が分からない。
次のテストは0点かもしれない、と本気で思った。
「わ……わかりません……」
「……じゃあ、さっき煽っていた、大島、解いてみろ」
あたしはしょぼんと席に着いた。
そして、黒板にツカツカと歩いていく、大島沙希ことさっちゃんを見ていた。
『旗の頂点をCとする』
だの、
『旗のA,B地点と同じ高さの点を、Dとする』
だの、
さっちゃんはさらさら黒板に書いていく。
『△ADCに注目して』
『三平方の定理を用いて』
あぁ……もうダメだ。
*****
「あたし、さっちゃんには敵わないよ」
T字ほうきを動かす手を止めて、さっちゃんはあたしを見る。
大きな目をますます大きくして、あたしを見ているさっちゃんは、お世辞でもなんでもなく可愛い。
「なんの話よ?」
あたしは一息、溜息をついた。
さっちゃんが集めたゴミを、勢いよく集める。
風に吹かれ、たくさんのゴミが散った。
「さっきの数学の時間。黒田先生に当てられた問題、簡単に解いちゃって……」
さっちゃんはふっと溜息に似た失笑をして、あたしが散らばらせてしまったゴミを集めだす。
「なにこのノリ。あたしに進○ゼミでも紹介して欲しい訳?」
「う……ちょっと本当に紹介して欲しいカモ……」
がくっとうなだれるあたしの背中をバンバン叩いて笑うさっちゃん。
「馬鹿ねぇ、普通に授業聞いてりゃ分かるって」
あたしがほうきを片付けたあとも、さっちゃんは柱の隙間からほこりを集めていた。
あたしは自由になった両手を背中で繋いだまま、足でほこりを蹴ってちりとりの中に入れようとしたが、その風で逆に集まったほこりたちはまた散乱してしまった。
あたしが、あ、ごめんって言ったら、さっちゃんは、もうこの子ったらしょうがないんだから、と笑ってくれた。
さっちゃんは集まったゴミをささっと回収して、ゴミ箱に向かった。
その時、あたしに背を向けながら、さっちゃんは言う。
「大体さぁ、あんた数学は中学ん時から得意だったじゃない。なんで急に赤点取るまでになっちゃった訳?」
それは数学の先生が黒田センセイだから。
それはセンセイに見とれてるから。
それはセンセイが好きだから。
見てはいけないものを見てしまったから。
よりによって、あんなときに。
とくん、とくん。
自分の心臓の音が聴こえた。
学校内が揺れているようにまで感じるほど、心拍数は増えていく。
好きな人には幸せになってほしいと願う。
綺麗事なのかもしれない。
けれども。
黙ってしまったあたしに、帰ろうと促すさっちゃん。
その顔に、普段と変わったところはなかった。
あぁ、何も知らなければ良かった。
あぁ、何も見なければ聞かなければ。
どうしてこんなことになってしまったんだろうか。
どうして、こんな。
*****
夕暮れも、とっくに過ぎて、真っ暗な校舎。
もう、野球部の練習の声も、吹奏楽部の練習の音も、聴こえない。
手紙を。
あたしは好きな人に、その想いを伝えようと思って、手紙を書いて持ってきていた。
誕生日とか祝い事が好きなあたしは、その日を節目にすることが多い。
来週は誕生日。
そう思うだけで心は弾んで、スキップなんてしてしまいそうだった。
それなのに誕生日にもやもやしているのは嫌だった。
来週までには、なんとか決着をつけてしまいたかった。
誰にも言っていないけど。
たまに溜め込んで苦しくなるけど。
あたしはこんなあたしの性格が嫌いではなかった。
職員室へ向かう途中に通りかかる、あたしたちの教室。
その時、誰もいないはずの教室から、声がした。
「誰も来ないかな」
「で、用件は何ですか?」
あたしはすぐにその声の持ち主が分かった。
一人は、あたしのすきなひと。
もう一人は
……親友。
神妙な雰囲気。
教室には、勿論入れなかった。
しかし、ドアが全開である教室の前を通過しないことには、職員室に辿り着けない。
その時、あの好きな人の声で聞きたくない言葉を聞いた。
「実は、ずっと好きだった」
耳を、正に疑った。確かめたくて、そっと、覗いてみる。
グラウンドのライトが入り込んだ教室。
あたしは毎日、ここに来て。
とても好きな人のことを考えて。
でも、その人は『面白い先生』ってだけで、誰もが大きく興味を示すわけでもなく。
あたしはその先生の授業の度に、お腹が痛くなるまで笑った。
何回も、涙がでそうになるまで笑った。
あたしは、そんな黒田先生が好きだった。
一番初めに見たときに、一目で好きになった。
最初の授業のオリエンテーションで、ますます好きになった。
認めたくなかったけど、段々恋愛感情だって気付いて。
どうしようもなくなって。
手紙が、するりと手から滑り落ちる。
力が入らなかった。
潤んでもない瞳から、思いがけず涙がこぼれる。
あたしの恋の、始まりの場所。
教室。
目に焼きついた映像。
グラウンドのライト。
逆光。
ひとり分にしては大きい、ひとつの影。
走って教室を通過して、職員室へ行った。
黒田センセイの机に、今更とわかっているけど、手紙を置いて、帰った。
来週が誕生日だというのに、心は弾まなかった。
スキップをするような力なんて、なかった。
涙は、哀しいという感情の後にくる身体現象とは限らず、脊椎反応でもこぼれることを、知った。
*****
先の清掃で汚れたスカートを払って、職員室の扉を開ける。
「失礼します」
そして、大好きな人のもとへ駆け寄った。
「お、桜木……」
相変わらずのぺーっとしている、屈託のない笑顔。
その後ろから射す光は、僅かに先ほどの屋上でさっちゃんを射していたものより弱くなっていた。
「あの手紙……」
数学と同じだ。
答えは一つ。
でもたまに、解が二つあるっていう問題だって、あるじゃない。
でも、あたしはひとつであることを望んだ。
それはあたしじゃなくて。
『A.大島 沙希』
で、あることを。
知ってたんだ本当は。
さっちゃんの好きな人。
叶わないからいいんだーって笑うさっちゃん。
そんなことないよ!って励ますあたし。
たとえあたしのこの想いが実らなくとも。
あたしの好きな人達には、幸せになってほしいと、心から願う。
勿論、遠慮なんかされたらたとえさっちゃんであろうとセンセイであろうと、ぶん殴る準備は万全だ。
ちゃんと影はひとつになった。
それが、すなわち―――数学のマークで言うと、「∴」……こんなんだっけ?―――答え、『大島 沙希』になる、一番の証明だよ。
あたしは笑って、
「さっちゃんを幸せにしてあげてください」
と小声で言って、職員室を出た。
余計なお世話……だよね。
もうきっと、大丈夫だもん。
それから、あたしは外の光を浴びようと、屋上に行った。
そこには、髪の長い少女が柵に寄りかかって立っていた。
「さっちゃん……」
「ばーか」
「ほえ?!」
思いがけない言葉に驚き、あたしは変な声をあげてしまった。
「なにやってくれちゃってんのよアンタって子はー。仕方ない子ねぇ……」
さっちゃんはあたしに近づいて、頭を撫でてくれた。
「なんで、ここにいるの?」
あたしは涙が滲み出したから、俯いた。声が歪む。堪えろあたし。
今のあたしの泣き顔は、絶対に見られたくない。
今日の昼休みに焼きそばパンをくわえていたときのような舌足らずな口調になってしまった。
「あんたがお昼を食べ残したら絶対ここに来て食べてから家に帰るって、知ってるから」
「じゃあ、あたしが今なにしてきたか、知ってるの?」
知ってるんだろうなと思ったから言ってみる。
ばーかという言葉も、なにやってくれちゃってんのよという言葉も、全部知ってる人が吐く台詞だ。
さっちゃんはあたしの頭を撫でる手を止めて、抱きしめてくれた。
「こないだの逆。あたしが見ちゃった」
「あ……」
さっちゃんはあたしを抱きしめていた腕を離して、屋上の柵にもたれかかった。
「さぁ、食べるもん食べて、帰ろ! 帰りにさ、ショッピングモール行こうよ」
あたしは両手をその柵に添えて、その風景を見る。
あたしたちの街だ。
あれは小学校。さっちゃんは他の子より大きくて、男子に「おとこおんなだー」ってからかわれて、みんなぼこぼこにしちゃって先生に怒られてたっけ。
あれは中学校。
さっちゃんの制服とあたしの制服のサイズが全然違って、ふたりで笑ってた。
同じ高校に進学しようねって約束、果たせてよかった。
ずっと一緒にいたいな。あたしのお姉ちゃんみたいなさっちゃん。
そう言ったらきっと、あたしがいないと、みーこはだめだもんねーって笑うんだろうな。
「なんか好きなの買ってあげる。今日はみーこの誕生日でしょ?」
あたしが本当に好きなのは、さっちゃんなのかもしれない。なんて、今は冗談にならない冗談で、唇を空回りさせた。
同じ街に、同じ年に生まれて、出会えて良かった。
でも、あたしが先に今日、17歳になっちゃったね。
「早くパン食べちゃいなよ。バイト代が出たばかりのおねーさんがなんでも買ったげるから」
あたしはえへへ、と照れ笑いを浮かべながら、鞄の中から焼きそばパンの袋を取り出す。
よく見ると、もともと潰れていた焼きそばパンは、鞄の中で画期的シャッフルを喰らい、『焼きそばとパン』になってしまっていた。
「あぁー! あたしの焼きそばパンが……」
あたしが叫ぶと、さっちゃんは大笑いをした。
それを見て、つられてあたしは笑った。
ふたりは笑って。
なんて幸せな誕生日なんだろう。
桜木みいこ。
17歳になったこの日を境に、
新しい恋を、探そうと誓った。
そして今度こそ。
他の誰でもなく。
あたしが幸せになるんだ。
見ていてさっちゃん。
大声で、自信を持って。
「あたしは幸せです」と言える様になってやる。
ハッピーバースディ、あたし。
焼きそばとパンが、口の中でちゃんと焼きそばパンになっていた。
END